創世記 その3 失楽園

呪われた世界(創世記3章1節~3章19節)

さて前章までは人類の最初の状態が、生きるのに何の苦労もいらない神の祝福を受けたものであったことを述べていた。それがどうして現在のような殺伐とした世界になったのか? その点について語っているのが創世記3章である。

何が起きたのか?

このくだりはさほど長くないので、そのまま読んでみよう。

さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。(創世記3:1-7)

しゃべる蛇? オウムじゃ無くて?

蛇はまあ確かに狡猾そうではあるものの、一般的にはしゃべらない。普通、蛇がしゃべったらダッシュで逃げるか旦那のアダムをけしかけるはずだが、エバは驚き怪しむどころか普通に会話したあげく、あっさりとのせられている。アダムはその場にいたが、驚くべき事に彼は一言も反論せずエバに勧められるままに実を食べた。

これは蛇が天才的な話術を持った詐欺師であったか、またはアダムは驚くほどの恐妻家であったかのどちらか(あるいは両方)の可能性が高い。

だが蛇は何のために人類を騙した? 神の創造はすべて「良い」ものであったはずだ。会話能力はさておき、人を騙すような動物がいるはずが無い。おかしい。この蛇は普通じゃ無い。いったいこの「しゃべる狡猾な蛇」は何者か? 

年を経たへび

この蛇の正体については聖書の最後の書、ヨハネの黙示録において明らかにされている。この蛇こそ、かの有名な“悪魔サタン”だ。

この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。(黙示録12:9)

彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、(黙示録20:2)

人類を欺し、誘惑し、罪を犯させ、それを神に告発するのがサタンの性質である。エバをそそのかし、罪を犯させた主犯はサタンだ。サタンが何者であり、なぜ人類に敵対するかについてはまた別途まとめたいが、簡単に言うと悪魔サタンは人類の崇拝の対象を自分に向け、自分が神になろうとしている存在だ。ちなみにサタンは神の被造物の中で最も美しく、最も賢いとされている(エゼキエル28:12)。腹話術もさぞかしうまいに違いない。

善悪の知識の実を食べるとどうなったのか?

「とって食べてはいけない」と言われていた善悪の知識の実を食べた二人はどうなったのか? 聖書では以下のように述べられている。

  • 『二人の目が開け、裸でいるのが恥ずかしくなった』(創世記3:7)
  • 『人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。』(創世記3:8)
  • (神のように)『善悪を知るものとなった』(創世記3:22)

うまかったかどうかは謎だが、禁じられた実を食べた後、アダムとエバは神から身を隠そうとしたうえ、追求されると責任を他者に転嫁した。それが“善悪を知るものとなった”がゆえかどうかは断言できないが、二人は罪悪感を感じるようになっていたことが分かる。また羞恥心が芽生えた点をみるに、子どもが一瞬で大人になってしまったような印象を受ける。

ともかく、これは神の命令に背く行為であった。その結果、アダム、エバ、蛇はそれぞれ神からの裁きを受ける。

蛇への裁き

まず蛇。エバを騙して、神に背かせた。この裁きの対象が、蛇そのものなのか、それとも主犯である悪魔サタンなのかはよくわからない。一般的には3章14節は動物である蛇への裁きであり、15節は悪魔サタンへの裁きであるという解説が多い。この場合、サタンが蛇を操り、エバを騙したことになる。しかし14節もサタンに対する裁きであると仮定すると、創世記3章の“へび”はサタンそのものを象徴している可能性がでてくる。(しかしどちらであったとしても聖書全体の流れには大きく影響しないだろう。)

主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。(創世記3:14)

わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。(創世記3:15)

14節「這いあるき、一生、ちりを食べる」についての考察

蛇が動物を意味すると仮定した場合:

「腹で這う」という呪いは現在の蛇の生態に非常にマッチしている。もしこの呪いが動物の蛇に対するものであれば、本来蛇には足があったということなのかもしれない。そして、エバを騙した直接の犯人は(背後で操っていたのは前述の通り悪魔サタンであることは疑いようが無いが)文字通り動物の蛇であったことになる。

また、「すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。」という表現から、呪われたのは蛇だけでなく、他の動物すべてであったことがうかがい知れる。前章で紹介したとおり、そもそも草食動物しかいなかった世界(創世記1:30)がこの時点で弱肉強食の殺伐とした世界に変わったのかも知れない。

蛇がサタンを象徴していると仮定した場合:

この説を採る人は「這いあるき、塵を食べる」という意味は、サタンが神に屈服することを意味すると考える。聖書では、神の権威へ屈服させられることを「塵をなめる」と表現している箇所があるためだ。

彼らはへびのように、地に這うもののようにちりをなめ、震えながらその城から出、おののきつつ、われわれの神、主に近づいてきて、あなたのために恐れる。(ミカ7:17)

彼のあだは彼の前にかがみ、彼の敵はちりをなめるように。(詩篇72:9)

もろもろの王は、あなたの養父となり、その王妃たちは、あなたの乳母となり、彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、あなたの足のちりをなめる。こうして、あなたはわたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。(イザヤ49:23)

その他:

イザヤ書の預言では、将来的にはへびの食べ物は「ちり」になるとされている。ただしこれはまだ実現していないし、“他の動物が草食に戻っている”、つまり呪いが無い世界の話なので、創世記3:14との関連性を想起させられるものの、いまいちカッチリとは当てはめられない。

おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。(イザヤ65:25)

15節についての考察

15節は明らかにサタンに対する裁きである。この創世記3:15は原福音とも呼ばれ、「サタンがキリストを十字架で殺すが、それによってキリストはサタンに致命傷を与える」ということを表しているとされる。さりげなく神は人類がしくじったそばから人類救済のプランを立てていたのだ。“女”、“おまえ(へび)のすえ”、“女のすえ”が誰であるか、また「かしらを砕く」のはいつなのかについての解釈は人によって若干のブレがあるが、最終的にキリストがサタンに打ち勝つということを意味しているという点で見解は一致している。ここについては後日別ページでまとめたい。

女への裁き

次にエバに対する神の裁き。彼女は最初に果実を取って食べた。そしてアダムにも食べさせた。

つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。(創世記3:16)

「産みの苦しみを大いに増す」

創世記1:28では出産は祝福とともに与えられた命令だった。だがここに呪いが加えられた。子どもが産まれることが祝福であることには変わりないが、そこに至るまでには悪阻や陣痛という大変な苦労(らしい。)を乗り越えなければならなくなった。エバがこれ以前に出産を経験していた記録は無いので、実際のところどのくらい苦しみが増したのかは分からなかったと思うが、出産は最悪死を伴う文字通り「死ぬほど大変」なイベントになってしまったのだ。

「あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」

ここは「慕う」という言葉の受け取り方によって複数の解釈がされている。この言葉のヘブライ語の意味は「慕う」の他に、「征服する・支配する」という意味があり、そのため主に以下の二つの説が語られている。

  • 「子どもを産むのは苦痛だし、家庭では夫が支配的立場なんだけど、それでもあなたは夫を求める」という解釈
    簡単に言うと、女が男に依存する状態になるという解釈。
  • 「あなたは夫を支配したがるが、それはかなわず、夫があなたを支配する」という解釈
    なんでこういう解釈があるかというと、「慕う」というヘブライ語が「征服する・支配する」という意味で使われている別の箇所があるため。以下がそれ。それまでは仲良く調和した生活だったのに、男女がお互いにより上位に立とうとし争いが生じるようになる、という解釈。

正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(創世記4:7)

アダムへの裁き

“取り”を務めるのは全人類の家長アダム。蛇・エバ・アダムという順序で叱られているのは、アダムの責任が一番重かったことを示唆していると言われる。ではどんな判決が言い渡されたのか? 前二者の裁きもそうであるが、この裁きは我々にも影響している。

更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。(創世記3:17-19)

この裁きの要点は以下の2点である。

  • 『地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る』
    どうやら当初、人間は楽して食える職業だったようだ。それが「一生、苦しんで」働いて、つまり「顔に汗して」糧を得るようになってしまった。現在の世界の貧困および飢餓問題の基本的な要因はアダムにあるということになる。延いては石川啄木が「ぢっと手を見た」のも、我々が満員電車で日々疲弊しているにもかかわらずカッツカツなのもこのせいだ。なんということをしてくれたのか我々のご先祖様は。ほんとに。
  • 『あなたは、ちりだから、ちりに帰る』
    つまり死ぬようになった。ただし即死ではない。アダムは930歳まで生きた。しかし930歳で驚いてはいけない。神との約束を守っていれば「死ななかった」はずなのだ。つまり永遠に生きる存在だった。

アダムが物理的に死んだのは930歳の時だが、実は罪を犯した時点で「霊的な死」が発生している。これは神との特別な家族としての関係が失われたことを意味する。「死」とは結局、神から切り離されていることだからだ。神から切り離された結果、人はエデンの園を追い出され、ゆっくりと物理的死に向かっていく存在になった。

この時点で『無敵モード』だった世界が一気に『ハードモード』に変化した(しかも装備はすべて呪われている)。これが現在の世界である。前章での疑問「神が存在するならば、どうして世界は不幸で満ちているのか?」の答がここにある。世界は神に対する反逆のゆえに呪われた。呪いとは祝福の反対であり、神がいないことを指す。この結果、世界には神がいないかのような絶望的な光景が地球に現れ始めた。

そんなに「善悪を知る」ことはいけないことだったのか?

木の実を食べたのがどうしてそんなに重大な結果を招いたのだろうか? 例えば冷蔵庫に入っていたプリンを嫁に黙って食ったらどうなるだろうか? おそらく怒られるだろう。もしそれがあらかじめ「食うな」と言われていたのに食ったらとしたらどうであろう? それはもう離婚話に発展してもおかしくない。ということでは全然ないので注意。

ここは『神に反逆した』という事実が重要なのであって、木の実かプリンかで罪の重さが違うとかそんな話では無い。『自由意志を持った人間が自らの意思で神を退けた』という事実がポイントである。

さらに、この事件によって、人類全員が罪を犯す性質を持った存在となった。つまり、アダムとエバが神に反逆した結果、その子孫はすべて罪を犯す性質を持って産まれることになったと言われる(ちなみにアダムとエバの長男は人殺し)。この考え方は一般に『原罪』と呼ばれ、その定義や解釈は教派によっていろいろある(原罪ちゅーもんは無いという教会もある)のだが、この事件で『罪』が人類の属性の一つとして表れ始めたのは間違いない。

新約聖書では次のように語られている。

このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。(ローマ5:12)

罪という属性を獲得し、神から離れていった人類の評判を少し見てみよう。

主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。(創世記6:5)

主は天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者があるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない。(詩篇14:2,3)

善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない。(伝道の書7:20)

すべての人に同一に臨むのは、日の下に行われるすべての事のうちの悪事である。また人の心は悪に満ち、その生きている間は、狂気がその心のうちにあり、その後は死者のもとに行くのである。(伝道の書9:3)

すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。(マルコ7:21-23)

完全に街のダニ扱いされている。これが創造の際に「はなはだ良い」と言われた種族のなれの果てである。

「いやちょっと待て、オレは人を殺したこともなければ万引きすらしたこともない善良な市民だ!」という人もいると思う。しかし残念ながら神の義の規準はほとんど無理ゲーに近いほど高い。以下は地上で唯一罪を犯さなかった人間(でありまた神でもある)、イエス・キリストの言葉である。

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。(マタイ5:27-28)

おわかり頂けたと思う。世の中的には「仏かよ」と思うような善人でも、神の目からみると『まっくろくろすけ』なのである。

神は人類を見放したのか?

では神はこの腐りきった人類を見捨ててしまったのか? 答は「一秒たりとも見捨てていない」である。むしろ計り知れない愛情でもって人類が失った神との特別な関係を取り戻そうとされた。以下が罪人である人類を救う神のプランである。

  • 神と人を隔てているのは罪である。義であり聖である神は罪を許容できない存在だからだ
  • しかし人類は全員『まっくろくろすけ』なので全員死ぬ
  • そこで神は全人類の過去・未来・現在のすべての罪を帳消しにする価値を持つ『犠牲』および『代価』を用意する必要があった
  • それほどの価値を持つ『犠牲』は神の御子以外に存在しなかった。しかし神である御子は死ぬことが出来なかった
  • そのため、不死である神が死ぬために人間として地上に降臨する必要があった

この『犠牲』こそイエス・キリストである。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

このプランはいまも全人類に対して有効である。つまり以下を信ずる者は誰であろうと救われる。つまり、我々が遙か昔に失った、神との素晴らしい関係を回復できるのだ。それは永遠に生きることを意味する。

  • キリストが自分の罪を贖うために十字架で死んでくれたこと
  • 死後、墓に葬られたこと
  • 三日目に蘇ったこと

兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、 (コリント第一15:1-4)

ポイント

  • この世界での苦難は神が意図したものでは無く、人間が選んだ結果
  • 神は義であり、罪とは相容れない
  • 神は計り知れないほど人類を愛している

この世に絶望している人はある意味正しい。神から切り離されているのだから。だが幸いなことに、神は人類に救世主イエス・キリストを与え、個人レベルでの救いを用意した。もし万が一、万策尽き、生きることを放棄したくなった場合、ダメ元で良いからイエス・キリストを信じてみよう。その結果、むしろ自分をキリストに至らせたその絶望こそが人生最大の幸運だったと気づくと思う。

以下のキリストの言葉は教訓では無く、法則である。キリストの言葉はすべて成就すると聖書に書いてあるからである。つまり絶望する必要は無いということだ。

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。(マタイ7:7)

さらに神が人に与えるものはいわゆる「心の平安」や抽象的な「救い」だけではない。神は人間の物理的・経済的な絶望すら顧みる。「人はパンのみに生きるにあらず」と語った神は、同時に“パン”の必要性も十分に承知している。

また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイ6:28-34)

むしろこの腐った世界にあってもたまたまお金持ちだったり、何一つ不自由しないでいる人間のほうが不幸だ。その人は神を探さないで一生を終えるかもしれないからだ。それは罪人のまま裁きの日を迎えることを意味する。実はそれが最悪の結末なのだ。

以上。ちょっと長かったね。

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