どんな人に救いが必要なのか?
あなたは救いを必要としているだろうか? 「終電で帰宅したら家の鍵を会社に忘れてきたことに今気づいた」、「腹の調子が悪いのに乗っている電車が急停車して、もう30分以上そのまんま」、「給料日から三日しか経ってないのに所持金が5,000円を切った」などのようにかなり切羽詰まった状況にある人は「今すぐ救って。ライトナウ!」という感じかも知れない。つまり、身体的・精神的に窮地に陥っている場合、その状態からの解放を願うのは自然なことだ。
じゃあそういう状態じゃない人はどうだろうか? 例えば美しい嫁さんを貰って、かわいくて賢い子供が三人もいて、株投資で大成功してもうマンションのローンも完済したどころか、レクサスの新車を一括で買った上に、ガレージ付の一戸建てを新築しようか悩み中の30代だったら救われたいと思うだろうか? 「ハァ?」っていうよねきっと。
実は我々は自分では気がついていないが誰しも前述したところの「ライトナウ!」のほうの人みたいな勢いで救いを必要としているのだ。(もちろんレクサスの人も、その嫁もだ)
実はちょっと気がつかないかも知れないが、我々はかなりの窮地に立たされている。このまま放っておくとあなたは間違いなく破滅する。
いつ破滅するのか?
実質的にはあなたが死んだ時に破滅が決定すると言える。「死んだらそもそも破滅じゃないの?」。No。ノー。違う。あなたが救いを得る前に死んだ場合、生前の行いに従って神からの裁きを受けそして地獄に行く。それが破滅。救いを得るとは、死後の裁きを受けずに、いわゆる天国に入り永遠に生きることだ。新約聖書の最後の書、ヨハネの黙示録には以下のように書いてある。
また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。(黙示録20:12-15)
つまり、死は終わりではない。その後、場合によっては火の池地獄にぶち込まれるのだ。どうだろうか。怖くないだろうか? 私は全く怖くない。救われてるからね。
「おいちょっと待て、善い行いをした人は天国にいって、悪い行いをした人が地獄にいくんじゃなかったのか? オレは老人に席を譲ったことが少なくとも3回はあるし、献血にもいったんだぞ」。Yes。だがしかし、「悪い行い」をしなかった人はいない。全員が詰んでると言っていいぐらいの罪人なのだ。事実上、人類はデフォルトで地獄に行くことが確定していると思った方が良い。(どうしてそんなに人類が絶望的にダメな子なのかについてはこちらの記事を読んで欲しい。)
簡単に言うと救いとは、このダメな子たちが神の裁きを受けずに済むようになるということだ。
どうすれば救われるのか?
事は重大なのだが、救いを得るのは簡単でしかも無料だ。実はあなたがうける罰は既にイエス・キリストが2,000年前に肩代わりしてくれている。それを認めるだけでいい。彼は全人類の罪の代償として十字架に掛けられた。そのとき、あなたの分の罪まで帳消しにしてくれたのだ。したがって、イエス・キリストを自分の贖い主として認めた人は神の裁きを受けない。むしろ神の子とされ、共に永遠に生きる。
「そんな簡単なことで赦されるのか?」 Yes!。神は我々が理解できないほど厳格でかつ寛大なのだ。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。(ヨハネ3:16-18)
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